トンブクトゥの豆知識30選
新しいことを覚えたら、クイズで力試し。
英語版クイズをもとにAIで日本語で作成しました。出典は日本語版ウィキペディアにリンクしています。
全部知ってた?クイズで証明しよう。
30問のクイズに挑戦トンブクトゥが中流域の湾曲部に位置する西アフリカの大河は?
同名の州の州都でもあり、2009年の国勢調査での人口は54,629人だった。
メッカ巡礼の際、マンサ・ムーサが10トン超の黄金を運ばせた動物は?
一行には絹の服を着て黄金の杖を持つ家臣たちが加わり、旅に必要な一切の費用は王が出したとされる。
トンブクトゥの町が埋もれる危険性を指摘される原因の現象は?
町の周囲で進行している。インフラも依然として整っておらず、ホテルのキャパシティも小さい。
通過地となったことでトンブクトゥの知名度を高めた自動車競技は?
開催年によってはコースから外れることもあった。周辺が世界遺産に登録されたことも知名度を押し上げた。
トンブクトゥの泥土のモスクの様式に啓発されたといわれる建築家は?
サグラダ・ファミリアを設計したことで知られる人物である。
マリ帝国と並び、トンブクトゥを中心地として栄えた帝国は?
サハラ南端と大河の北部を結ぶ交易路の結節点にあり、イスラームと商業の十字路として知られた。
16世紀のトンブクトゥ衰退の一因となった、ある時代の始まりとは?
政治の混乱と天災も重なり、伝説の都市として知られた町は勢いを失っていった。
11世紀前半、トンブクトゥの起源となる冬の野営地を設けた遊牧民は?
野営地はその後、金や象牙、塩などが行き来するサハラ砂漠の通商路の重要な中継地として都市に成長した。
マンサ・ムーサが、その名を知らしめたメッカ巡礼を行ったのは何年?
豪華な一行は、周辺の国家にマリ帝国の富裕さを知らしめることになった。
トンブクトゥで現在も手工芸品などとともに取引されている産物は?
町は今も、砂漠地帯の中の物資の集散地点としての役割を保っている。
1828年にトンブクトゥを訪れ、生還した初のヨーロッパ人とされる探検家は?
彼は訪れた町の様子を、荒廃した泥の町と報告した。その後はキリスト教徒の伝道者も訪れている。
1512年に西アフリカの帝国を訪れ記述を残した16世紀の地理学者は?
訪問当時の帝国は繁栄の絶頂にあり、旅行家でもあった彼の記述がその様子を伝えている。
2012年に破壊されたトンブクトゥの聖廟は、誰の手で復元された?
ユネスコは破壊から数か月のうちに世界遺産の危機を訴え、修復活動に着手していた。
かつてのトンブクトゥは、何万人以上の人口を数えたとされる?
交易形態の変化や衰退によって2000年代には5万人あまりに減り、少し大きな村といった規模になった。
モスクや聖廟を含むトンブクトゥの歴史地区の世界遺産登録は何年?
文化遺産としての登録で、登録基準の(2)(4)(5)を満たすと認められた。
マリ帝国の称号「マンサ」は、マリンケ語で皇帝または何を意味する?
「ムーサ」は旧約聖書の預言者モーセと同じ名前で、「マリのライオン」という呼び名も伝わる。
トンブクトゥのサンコーレ・マドラサは、最盛期に学生を何人抱えた?
世界遺産に登録されている。マンサ・ムーサの治世下には、中東や北アフリカから法学者や天文学者が招かれた。
モスクの学術資料を収集するためトンブクトゥに本部を置く研究所は?
サンコーレ、ジンガリベリ、シディヤヤの各モスクは、かつてイスラーム神学・法学研究の一大拠点だった。
トンブクトゥ写本は、長らくどのような形で保管されていた?
倉庫・洞窟・地下などに大切に保管されてきたが、やがてヨーロッパの大学の協力もあって組織的な収集が行われた。
トンブクトゥがムーア人の傭兵集団に占領されたのは何年?
傭兵集団はモロッコ人のスルタンに仕えていた。この占領が町の衰退に拍車をかけた。
2012年6月30日にトンブクトゥで聖廟を破壊したイスラーム主義組織は?
破壊されたのはイスラーム指導者の聖廟で、当時この組織はマリ北部を支配していた。
2012年4月1日にトンブクトゥ市域の掌握を発表した組織は?
同組織は4月6日に一方的に独立を宣言したが、その国は国際的に承認されず、同年6月中に事実上崩壊した。
1325年、巡礼帰りのマンサ・ムーサが再占領の知らせを聞いた交易都市は?
王は遠回りしてこの都市に立ち寄り、現地の王の二人の息子を人質として受け取って、自分の宮廷で教育を施した。
マンサ・ムーサの巡礼の一行に加わった家臣は何人と報告されている?
このほか奴隷も1万2千人以上が従い、家臣たちは旅荷を持たせた馬の隊商を連れていた。
マンサ・ムーサの巡礼の一行が出発した、マリ帝国の首都は?
一行はここからワラタ(現在のモーリタニア)、タワト(現在のアルジェリア)を通って進んだ。
2012年に「トンブクトゥ」とともに危機遺産リストに登録された世界遺産は?
登録を決めたのは第36回世界遺産委員会で、武装組織による聖墓の破壊が背景にあった。
マンサ・ムーサの建設と誤解されがちなジェンネの大モスクの再建は何年?
「泥のモスク」とも呼ばれる建物である。王が実際に数多くのモスクやマドラサを建設したのは、トンブクトゥなどだった。
トンブクトゥが、新たに創設された同名の州の州都となったのは何年?
マリの首都バマコからは、不定期の空路や陸路、川を行き交う乗合船で向かうことになる。
トンブクトゥが完全なコミューンとして認められたのは何年?
それに先立つ植民地時代の1958年には、準コミューンとして認められていた。
トンブクトゥのジンガレー・ベルを建てた文人サーヒリーの出生地は?
王が彼をエジプトから招聘して建設させたと伝えられる。世界遺産にも含まれるこの建物は、元はマドラサだった。